雨に濡れた身体をそっと抱いてくれたのはお日さまの色をした人でした。



私は物心付いた頃から野良猫でした。
世の中のことは勿論、親猫のことも、何も知りません。ですが、私には年の離れた優しい兄が居たので、幼い野良猫ながらも幸せに生きていました。
親仔程に年の離れた兄妹でしたが、狭い世界でとても幸せに生きていました。
ですが、その小さな世界は唐突に終わりを告げました。ある雨の日、車というものに撥ねられて兄が死んだのです。
死とは何かを分かってはいませんでしたが、兄と時々話をしていた猫に、そう聞きました。もう兄は戻ってこないのだと。
けれど私にはそれだけで十分でした。それだけで十分恐ろしい事でした。それだけで十分に悲し過ぎる事でした。
私は野良猫でした。何も知らない幼い野良猫でした。
世の中のことは勿論、親猫のことも、餌の取り方も、散歩の仕方も、何も知らなかったのです。
そんな私が、この広い広い世界で生きて行くのは、容易な事ではありませんでした。

兄が居なくなって3度目の雨の夜、私は初めて人間に出会いました。
かつて兄がしていたように、見よう見まねで餌を取ろうとして、何度も逃げられ、結局食事にありつくことの出来ていなかった私はとてもお腹を空かしていました。
だから、私は忘れていたのです。兄が何度も何度も言っていたことを。
その人間はそれはとてもとても美味しそうな餌を手にして、此方に声をかけていました。
今まで人間の言葉というものを聞いたことがなかったのでその人間が何を言っているのかは分かりませんでしたが、私はついその餌欲しさに躊躇いなく人間に――正しくはその餌に――近付いて行きました。
本当ならその餌を口に咥えてすぐ、その場から離れ誰も居ないところで、せめて人間の手の届かぬところで、その餌を食べれば良かったのです。
ですがその時の私は久方ぶりの食事にありつくことが出来た嬉しさと、無知ゆえの無用心さから、その場で餌を食べ始めてしまいました。
大方その餌を食べ終えたところで、私は首の辺りに妙な感触を感じました。
ふとその感触を辿り上を向くと、先程私に餌を見せていた人間がとても近くに見えました。私は首を掴まれていたのです。
親猫が仔猫を運ぶ時に咥えるような掴み方ではなく、首を閉めるような、息が出来なくなるような、掴み方でした。
それだけではなく、その人間は鈍く光る何か――それがホウチョウというものだという事を後になって知りました――を取り出して、私の身体に当てたのです。
そして当てられた箇所に痛みを感じたと思ったら、身体の中からあたたかい血が出てきました。
そこでやっと、私は思い出したのです。兄の言葉を。
「人間は恐ろしい生き物だ」という、言葉を。
身体中が総毛立つそうな恐怖と後悔を感じました。
このままでは死んでしまう!
本能でそう感じた私は必死で抵抗しました。
この頃の私はやはり死とは何かを理解などしていませんでしたが、とても恐ろしいものだということだけは分かっていました。
だって、あの優しかった兄ともう二度と会えなくなってしまうようなことなのですから。
なんとかその人間の手を逃れ、雨の中私は駆け出しました。
怖くて、怖くて、怖くて、後ろを窺う余裕などありません。ひたすら、ただひたすらに、前へ走り続けました。
雨の中を暫く走り続けると目の前に大きな建物が見えたので、私は咄嗟にそこに飛び込みました。そこには人間の気配がしなかったので、安全だと思ったのです。
大きな冷たい空間の隅で、私は蹲って震えていました。私が人間だったならきっとすすり泣いていたでしょう。それほどに恐ろしい出来事でした。
「人間は恐ろしい生き物だ」「油断をしてはいけないよ、人間とはズル賢いからね」兄の言葉が、痛いほど身に染みました。
兄もきっと、私の知らないところでこのような恐ろしい思いを味わったに違いありません。だからこそ兄は私によく言い聞かせていたのでしょう。
そうして物陰に隠れていると、人間が建物に入ってくる音が聞こえました。
私はすぐに警戒しました。また、酷い目に遭わされるかもしれない!そう思うと今すぐこの場から逃げ出したい思いに駆られました。
けれど、雨に濡れたせいかそれとも身体を傷付けられたせいか、身体は重たく、また走り出せるような力は残っているように思えませんでした。
見つからないよう隅に身体を寄せながら気配と音を窺うと、入ってきた人間は何かを探しているようです。
私はただ恐ろしくて、どうか見つかりませんようにとだけ考えていました。
人間が入ってきてからどれ程の時間が経ったのでしょうか。
とうとう私は人間に見つかってしまいました。
ですが、私を傷つけた人間と、今目の前に居る人間は、別の人間のようでした。
私を見つけた人間は何事かを呟くと、少し離れて私の前に屈みこみ、私を見たままじっとしていました。
先程の人間のように餌を見せる訳でも、盛んに声をかける訳でもなく、ただ、じっとしていました。
ですが私は兄の言葉を思い出していたし、人間というのは危険な生き物だと身を持って分かっていたので、動くことはしませんでした。
私が動けない事を知ってか知らずか、人間は一定の距離を保ったまま私に近付いて来る気配はありません。
ただお互い見つめあったまま時間は流れていきます。
ザアザアと雨音だけが響く中、最初に動いたのは私でした。
先程傷付けられたばかりだというのに、なんと愚かな、と思われるかもしれません。
私もそう思わなくありませんでした。ですが今、私の前に居るこの人間が、私を傷付けた人間と同じだとは思えなかったのです。
恐る恐る、ゆっくりと、私は彼に近付いて行きました。その間も彼は動くことなく、じっと私の事を待っているようでした。
彼が私に近付こうと、私に触れようと、何か動きを見せていたら私は身体の傷に鞭打ってでもその場から逃げ出していたでしょう。
ですが彼は私が彼の元へ行くまで動かずに、ただ私を見つめる瞳だけを動かして、私の事を待っていたのです。
私が彼の足元へ身体を寄せてからやっと、彼は何か言葉を発しました。音から判断するに、安心したような、そんな感じのものでした。
彼は私をゆっくりそっと抱き上げると私を抱えて建物を出、雨の中を歩き出しました。
何か言葉を発するでもなく、足早に歩きました。今思えばきっと私の身体の傷のことを気にしていたのだと思います。
相変らず私の身体は震えていましたが、不思議と心は震えていませんでした。
腕の中からそっと彼の顔を見上げ、雨に濡れた髪と、真っ直ぐな瞳を見つめて思いました。ああまるでお日さまのようだ、と。
雨に濡れたお日さまなんて私は見たことも聞いたこともありませんが、確かにそのとき私はそう思ったのです。

それが、私と彼の出会いでした。