彼は傷付いた私を抱いて、暫く雨の中を歩いていました。
いくつもの道を曲がり、あるときは真っ直ぐ進み、彼は歩いていきます。
何度目かの角を曲がって、彼は歩みを止めました。目の前には白い建物があります。
彼は少し何かを考えている様子でしたが、私を見遣るとすぐに透明な扉を肩で押して、その建物の中に入っていきました。
建物の中は温かく、冷えた身体には心地良い空気が流れていましたが、同時にとても不思議な匂いがしました。
ツンとするような、でも余り不快ではない、今まで嗅いだ事のない匂いです。
「―――――!」
彼が何かを言っているのが聞こえました。大きな声で誰かを呼んでいるようでしたが、人間の言葉が分からない私には本当に彼が誰かを呼んでいるのかどうかは分かりません。
声に反応するように、建物の奥から誰かが歩く音が聞こえてきます。が、私たち猫よりずっと耳の悪い人間である彼にはその足音は聞こえないようでした。まだ、声を発し続けています。
「―――――」
奥から大きな人間が姿を現しました。
私よりもずっと大きな姿を見て、また、寒さ以外の理由で身体が震えだしました。
きっと、彼が呼んだのだから大丈夫だ、と自分に言い聞かせても震えを止めることが出来ません。
それ程までにさっきの出来事は私が思った以上に私の身体と、そして何よりも心に深い傷を作ったようでした。
「―――――!」
「―――――」
「―――――」
彼と大きな人間は会話をしているようでした。
人間の言葉は分かりませんが、それでも楽しい雰囲気ではないという事くらいは分かります。
私は不安になって震える身体をぎゅっと丸めました。
すると彼の手が、優しく私に触れました。
顔を上げて見た彼は彼は相変らず大きな人間と言葉を交わしているようでしたが、それでも私を撫でてくれる手が苦しいくらいに優しくて、私はとても安心したのです。
「―――――」
「―――――」
「―――――」
「―――――!」
ぱたぱたと先程とは違う足音が聞こえてから、2人よりも高い声が聞こえました。
そして、私が彼の腕の外を見て音と声の主を確認するより前に、ふわりと温かい感覚がしました。
布に包まれたのだ、と理解すると同時に、身体の辺りに違和感を感じます。どうにか布から顔を出すと、彼の姿がよく見えるようになっていました。
彼ではない人間に身体を預けていたのです。そのことを理解した私はもがき、声を上げました。
怖かったのです。彼以外、全ての人間が。
怖かったのです。独りになることが。
――また離れてしまう、兄と離れ離れになったときのように!――
狭い世界しか知らなかった私にはもう彼以外、頼るものが無いのです。何より、広い世界に独りきりというのはとても淋しい事でした。それらは身体の傷なんかよりもずっと痛いことのように思えました。
だから、私は出せる力を振り絞って、その人間の手から逃れようとしたのです。
無我夢中で暴れていると、頭に何かが触れました。その、優しい感触から彼が触れているのだという事に、すぐ気付きました。
「―――――」
彼は私の目を見詰めて、何かを言いました。まるで大丈夫だと言われているようで――事実そうだったのかも知れません――私は落ち着きを取り戻しました。
私を抱えていた大きな人間と隣に居た小さな人間はその様子を見て驚いたらしく、彼に声をかけましたが、彼に何かを言われると、大きな人間は私を抱いてどこかへ向かいました。
彼の姿が見えなくなって私は言い知れぬ不安に包まれましたが、彼を信じて耐えようと思ったのです。
大きな人間は私を布ごと黒い台――後で聞いたのですが、シンサツダイというそうです――の上に乗せると、どこからかカチャカチャと音をさせて茶色のビンと白くて平たい布、そして白くてふわふわしたものを持って来ました。
「―――――」
何をされるのだろうと様子を窺う私に、大きな人間は何か声をかけました。
彼とは違う低い声とでしたが、どこか彼の声と似ている気がして、私はほんの少し警戒を解いたのです。
すると大きな人間は茶色いビンを開け――開けた途端に鼻の奥がツンとする匂いがしました――白いふわふわしたものに中身を付け、それを私の身体の傷に押し当てました。ほんの少し、ピリリとした痛みを感じて身体が強張ります。
湿った白いふわふわとしたものは、私の血を少し吸って、赤くなりました。
2,3度それを繰り返してから、大きな人間は白くて平たい布を私の身体に巻き始めました。
くすぐったいような感覚と違和感を感じて、その布を少し咥えて剥がそうとしましたがやんわりと止められたので、仕方なくされるがままになります。
しばらくすると、大きな人間の手が私から離れていきました。身体には布が巻かれたままです。
きゅっと巻かれた布は私には邪魔で、またそのせいで乱れた毛並みも、とても気になりました。剥がしてはいけないようなので私は大人しく布の上から身体を舐めてみましたが、身体からツンとする匂いがして、少しだけ嫌な気分になります。この匂いの元は一体なんなのでしょうか。私には分かりません。

直らない毛並みをそれでもどうにか整えようとしていると、彼が姿を現しました。
濡れていた髪の毛も身体もすっかり乾いているようです。
「―――――」
「―――――」
彼と大きな人間はまた何事かを話しているようでした。
少しの間言葉を交わしてから、今度は私の方に向かって彼が話しかけてきます。
「―――――」
人間の言葉が分かれば、彼が何を言っているか分かるのに。一度そう思うと、言葉が分からない事がとても残念でなりません。
私は一声鳴いて、彼の方へ擦り寄りました。
「―――――」
そっと、彼は私の事を抱き上げてくれます。その腕はやはりとても温かくて、私はとても安心しました。それはお日さまのような温かさで、私を包み込みます。
彼と出会ってからの短い間に、私は彼と、彼の腕の中をとても好きになっていました。
人間にはとても恐ろしく怖い目に遭わされましたが、彼と、彼が連れて来た大きな人間は、また違う人間のようです。猫にも色んな性格の猫が居るように、人間にも色んな人間がいるのだということを、そのときの私は漠然とですが理解しました。
彼以外の人間はまだ怖いけれど、彼の周りの人間ならあまり怖くなさそうだと私は思いました。あるいはそれは、私の願望であったのかもしれません。

彼の温かさに包まれたことによって、緊張が解けたのか急に睡魔がやってきました。
それを察したのか、彼はやさしくやさしく私を撫でてくれます。
彼と、大きな人間が優しい瞳で私を見ていました。まるで私を見ていた兄のような、とても温かな雰囲気です。
ああここはお日さまの家なのだな、だからきっとこんなに温かいのだと思いながら私は瞼を閉じました。

兄が居なくなってからはじめて、安堵と幸せを感じた日でした。