0 0 1

 この人は傍から見ると酷く面倒な方法を好む。
 だがそれはあくまで傍から見るからであって、主観的に見ればそれ以上に効率的な方法は無いのである。
 意図してかどうかは自分には分からないが、一般的には至極面倒な方法であるにも関わらず他人の倍速で作業を終了させることで、この人はそれを証明している。
 だから、地球の裏側にまでほんの数十秒で行けるようなこの時代に遠い目的地まで駅を使わず自力で向かうなんて嘘みたいに面倒なことをするのも、この人ならと納得できる気がするのだ。
「本当に行くのかい?」
「ああ、行くよ」
 最早自分が何を言った所でこの人の意志は決して揺るがないのだろう。それを感じさせるように真っ直ぐな口調だった。
「しばらく戻って来ないだろうけれど、僕の事忘れないでくれよ」
 そう言ってその人は旧時代の、乗り物という酷く面倒なものに乗って去っていった。
 その乗り物の名前は自転車というものだったと思い出した頃、その人は点のようになっていた。
 こうして人が小さくなっていくのを見つめるというのも悪くないものだと一人思った。

0 0 2

 この世界で2日というのは移動にかける時間としては極めて破格だ。もちろん、長いという意味で。
 だが僕は2日かけてまだ目的地までの半分にも辿り着けていない。半分どころか10分の1にも及ばないだろう。
 時々、僕と自転車を見た人が何をしているのか、どこに行くのかを尋ねて来る。それに僕は快く答えるのだけれど、それを聞いた人達は決まって駅を使えば良いのにと言う。
 早く目的地へ行きたいのなら確かに駅を使えば良いと僕も思う。けれど僕は早く目的地へ行きたい訳ではないし、なによりこの自転車という物を気に入っているのでそう言われる度に僕には僕なりの手段があるのですよと言っている。大抵それでみんな興味を失ってくれるので、さようならを言って僕はその場から更に先へ進んで行くのだった。

0 0 3

「風になる」そんな言葉を残したのは昔生きていた誰かだろうけれど、その人はまさか本当に人間が風になれる日が来る とは思っていなかったんじゃないだろうか。
 僕は風と競走をしていた。風になるよりも風と一緒にいる方が僕には合っているらしい。だって風になったらこんな気持ち良さは味わえない。
 自転車を漕いでいると右の方から声をかけられた。足で地面を擦って自転車を止めるとその人はとても楽しそうに近寄って来た。
「やあやあ、これは自転車という乗り物じゃないかい」
「その通りだよ。これは自転車だ」
 いやあそれは素晴らしいことだねと言ってくれたので僕はとても嬉しくなり、君さえ良ければ乗ってみるかいと聞いてみた。
「いいのかい?!僕が自転車に乗っても!」
「ああ、大歓迎さ」
 すると彼は自転車に跨がりそっとペダルを漕いだ。彼がペダルを漕ぐ度に自転車と自転車に乗った彼はどんどん空へ昇って行く。
 西にあった薄っぺらい雲が東に来た頃、彼と自転車は僕の前に降りて来た。ずっと上を向いていた僕の首は随分疲れたようで目の前を向くだけなのに酷く苦労する。
「ああ、楽しかったよ。ありがとう」
 そういうと彼は貴婦人にダンスを申し込む紳士のようなお辞儀をした。
「お礼に僕の名前を教えてあげよう。世界でも知っている人は両手ほどしかいないんだ」
「それは光栄なことだね!」
「僕はテノゥ、ピエロのテノゥさ」
「僕はアルツォ。君と違ってただのアルツォだ」
 くるくる回りながらテノゥはアルツォアルツォと僕の名前を呟いた。それはもう何よりも楽しそうにテノゥが呟くものだから僕も楽しくなってテノゥテノゥと繰り返す。
「ありがとうアルツォ、君のおかげで今日という日はとても素晴らしい日になったよ!今度会った時は僕が君に素敵な日をプレゼントしよう!」
 ぱさりふわり、そんな音を立ててテノゥは駅も自転車も使わず、あっという間にいなくなった。
 実はピエロというものがどんなものなのか僕は知らなかったので、今度テノゥにあった時に聞いてみようと密かに決めたのだった。

0 0 4

 今日も彼は自転車で走る。どこまでもどこまでも真直ぐに走る。
 雨の中でも構わずに、ぐっしょりと濡れながらひたすらに走る。
「こんにちは、自転車に乗った名も知らぬ方。良い天気ですね」
 黒い蝙蝠傘を差した老紳士が彼に近付いて挨拶をした。
「こんにちは名も知らぬお爺さん。残念ながら僕には良い天気だと思えません。この通りびしょ濡れになってしまいますから」
 素直にそう彼が告げると、老紳士はとても愉快そうに声を出して笑う。
「ええそうでしょうとも、だから今日はとても良い天気なのです」
「貴方は人が濡れるのが嬉しいのですか?」
「いいえ、雨がもたらす全てが好きなのです。貴方が濡れてしまったのはこの際あまり関係ない」
 いやあ今日は本当に良い天気だ。老紳士が嬉しそうに言った。
 彼にとって雨はあまり喜ばしいものではないがそれはあくまで彼にとっての事で、道端の草花などにとっては貴重な水分であったりもするのだ。そう考えれば確かに雨が良い天気だとしてもおかしくは無いな、と彼は思う。
「それでは名も知らぬお爺さん、僕はもう行かねばなりません」
「そうですか自転車のに乗った名も知らぬ方。お引き止めしてすみません」
「いいえ、とても楽しかったですよ」
 明日も貴方にとって良い天気でありますように、と言って彼は再び走り出した。
 明日は貴方にとって良い天気でありますように、と言って黒い蝙蝠傘を差した老紳士は遠ざかって行った。

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駅を使わずに自転車で移動をしていると、自転車を使って移動する事に意味はあるのか、と聞かれることがある。
その度に僕は特に意味などは無いですよと答える。
大抵の人はそれで話はお終いなのだけれど、時々はどうして無意味なことをするのだ、と聞かれもする。
やりたいからです。それ以上でも以下でもないのです。僕はそうとだけ答えて再び自転車で移動を始めるのだ。
そして、自転車で移動する事に意味があったのなら、自転車がこうして廃れる事も、僕が自転車で移動する事も無かっただろうなとどうでも良いことを思う。
昔の人は、自転車を使わなくなる世の中を想像したのだろうか。想像していたかも知れないし、想像していないのかもしれない。
今の人たちが、駅を使わなくなる世の中を想像する位の確率では、想像していたのかも知れない。
そんな無意味なことを考えながら僕は今日も自転車を漕ぐ。
意外と、世の中に意味のあることは少ない。