それからの話

 蔵の中をひっくり返す様にして目当ての本を探す。
「あった…!」
 僕が初めて書いた本。失敗したと思っていた。けれど、ずっとその存在を忘れられなかった本。百千万字郎という存在を生み出した、本。
(これで、また彼に会えるかも知れない)
 最初はちょっといけ好かない奴だと思っていたけれど、出来ることならもっと一緒に居たかった。もっと話をしたかった。もっと仲良くなりたかった。
 そこまで考えて、不意に気付く。
 この本に魔力を込めたとして、万字郎が現れたとして、――それは『彼』なんだろうか?
 確かに彼を生み出したのは他でもない僕だ。彼が持っていた魔力を返して貰って、自分の中に彼の存在も感じている。
 けれど、僕は知らない。彼がロンドンで過ごした10年間を。彼が何を見て、何を経験して、何を感じて、何を考えて生きていたのかを。百千万字郎という名前を思い出せないまま、『代筆屋のサム』として生きて来た彼について殆ど何も、僕は知らない。
 彼が持っていた魔力は、彼の命は、確かに今僕の中にある。けれど、それをまた魔道書に吹き込んだとしても、『彼』に会えるとは限らないんじゃないか。
 だって、作者であった僕はあまりにも『彼』について知らないのだから。僕がよく知る――よく知っていた百千万字郎は、10年前の百千万字郎なのだから。
 そして、『彼』はもう居ない。魔力と命を僕に預けて、『彼』は消えた。それは紛れも無い事実だ。
 今の今まで、僕はそんなことに思い至らなかった。本当は気付いていて、見ないフリをしていたのかも知れないけれど。
 もしも、万字郎にまた会えたとして、姿を表した彼に『彼』の記憶が無いのだとしたら、僕はどうすれば良いのだろう。
 僕は、どうしたいのだろう。
 
 万字郎に会いたいという気持ちに嘘はない。
 けれど、それは『彼』にまた会いたいというのとは少し違う気がした。
 
 呼び出した万字郎に『彼』の記憶があるのかどうかは分からないけれど、記憶があっても無くても、僕は彼と友達になりたいと思うだろう。そういう確信があった。
(――そう、僕は、万字郎と友達になりたかったんだ)
 
 百千万字郎と友達になる為に、彼に会いたい。その気持ちは僕の中にストンと綺麗に収まって、最初からそういう気持ちを持ち続けていたようにすら思えた。いや、きっと僕は最初からずっとそう思っていたんだろう。自分でも気付かないでいただけで。
 僕は万字郎と一緒に、これから先を過ごしたいのだ。
 『彼』の記憶があったとしても、無かったとしても、万字郎は万字郎だ。ロンドンで10年を過ごした代筆屋のサムであり万字郎であった、ロンドンを守る為に自分が消える選択をした『彼』が、他の誰でもない『彼』だったように。
 これから出会う万字郎は、他の何者でもない、百千万字郎なのだ。
 
 清々しいような気持ちで、手に持っていた魔導書を見る。
 ――君に、会いたい。
 そうして僕は、魔導書を手に持って、魔力を込めた。
 薄暗い蔵の中に光が走る。10年前のあの日のように激しくもあり、それよりずっと穏やかでもあるような気がした。
 
 紙から走る光が収まって、蔵の中に再び薄暗い静寂が訪れる。
 視線をあげた先には、見覚えのある顔があった。
 
「――おはよう、万字郎」
「…おはよう――」
 
 僕達の物語は、ここから紡がれて行く。