名前を知らぬこの思いはそれでも自分自身を縛り付けるのだ。
ガイが風邪をひいた。
それは先日まで風邪をひいていたルークの世話を付きっ切りしていたからで、熱に魘されながら「傍に居て欲しい」なんて口走った自分を呪いたい気持ちになった。
普段から体調を崩したり寝込んだりの多い自分と違い、ガイは殆ど病気らしい病気にかかることもなく常に溌剌としているから失念していたのだと思う。ガイだって人間だ。風邪をひくこともある。
何故それを忘れていたのだろう。一時の寂しさに負けて――それが普段の我侭と同じであるということにルークは気付かない――ガイを病巣である部屋に拘束していただなんて。
ガイは使用人なのだから主人である自分の世話をするのは当然だとも思う。ガイは使用人なのだから主人である自分が心配するのは些か可笑しなことだとも思う。事実父親はそう言い放つだろう「使用人のことなど放って置け」と。だがそう考えるように勤めようとしても尚やはり気持ちは依然割り切れないもの――ルークはその感情の名前を知らない――を抱えている。
ガイのいない日常は普段より更に退屈だ。怒りをぶつけても誰も諌めてなどくれない。暇だと零しても誰も構ってなどくれない。周りの者は皆ただ淡々と仕事をこなすだけ。絡んでも厄介事を避けるために当たり障りの無い言葉をかけるだけ。だからルークは益々苛立ちを募らせる。…師であるヴァンが訪れているなら話は別なのだが。
考えて何故今回に限って風邪をひいたのだとガイに対して怒りを感じる。いつもは付きっ切りで病気の自分の世話をしていてもうつったりなんてしないのに今回に限って何故。
嗚呼でも、そういえば今回の風邪は巷でも随分流行っているもので感染力が強いらしいと誰かが言っていたっけ。
そして思考は堂々巡りを始める。
それもこれもガイに会えないのがいけないんだ、とルークは思う。
会えないから考えてしまうのだ。頭を使う事なんて嫌いなのに。
だが会いに行こうとしても、メイドたちに止められてしまうだろう。1度ひいた風邪とはいえルークの体がそう強いものではないことを屋敷の人間は皆知っているし、病気の人間の世話がいかに手間がかかるか自らの身を持って痛感している。やっとその手間から解放されたのに、またぶり返してしまうことは避けさせたいだろう。増して今回はそう短くない間寝込んでしまったのだから。
なら彼女等の目を盗んでこっそり部屋に入れば。いや駄目だ同室の老人が居れば追い返されてしまうだろう。人の良さそうな顔で花の手入れをしているあの老人だって考えていることは他の使用人たちとそう変わるまい。
そこまで考えてルークは考える事を止めた。
どうして主人である自分が使用人の目など気にしなければならないのだ。自分が何をしようがその結果使用人たちにどんな手間をかけさせようが関係ないではないか。
そう半ば開き直り、ルークは自室のドアを開けた。
キィと彼の部屋のドアを開ける。そこに同室の老人の姿は無かった。
ここに来るまでの間に使用人の誰とも擦れ違わなかったなと道を振り返り、そうならばもっと早くに来ても良かったなと思う。
極力足音を忍ばせてベッドへ歩み寄る。
ふわふわとした金色の髪は、じっとりと汗を掻いた額に張り付いている。
薄く閉じられた目は、しかし確りと閉じられていて、このまま眼を開けないのではないかとルークを不安にさせた。
ふと、眠るガイの頬を伝う雫に気が付く。
汗?それとも涙だろうか。表情から判断してみようと思っても、とても苦しそうに眠る彼が熱に魘されているのか他のものに魘されているのか、それともその両方なのか判断は付かなかった。
だが何処までも透明なそれはとても美しく見えた。
今、ガイは苦しんでいるのに。
不謹慎な思いと知りつつ、それでもその思いを拭い去ることは何故だかどうしてもできなくて。
汗とも涙ともつかぬその雫を指先で拭ってやる。
「ルー…ク?」
掠れた声。
「あ…悪ィ、起こしちまったか」
「うつる、から」
自分が床に臥しているというのに、まず気にするのは人の事か。
そう言う代わりにルークは顔を顰めた。何でそんなに優しいんだ。うつしたのはオレだろう。それを気にするべきだったのはオレだろう。
「構わねぇよ」
「でも…」
「オレが良いって言ってんだろ!」
他に言うべき言葉があった気がするのに。何故こんなにも苛付くのだろう。
「気が、済んだら、出てけよ…。怒られる、から」
最後の言葉の主語はガイ自身ではなくルークだ。使用人の――挙句病人の――部屋に入ったことが父に知れたら大変だと、ガイはそう言ったのだ。
そう理解すると苛立ちは一層強くなった。
年下の主人の相手もそこそこに、再びガイは目を閉じる。相当辛いのだろう。当然だ、ルークだってかなり苦しい思いをしたのだから。
近くの椅子に腰を下ろす。苦しげに息をするガイを見つめて溜息を吐いた。
ガイの部屋に来たのに、ガイをこうして見ているのに、思考の堂々巡りは止まりそうもなかった。それどころかより一層酷くなった気さえ、する。
来なければ良かった。そう思う。
けれど来なければ、きっと自分は後悔しただろう。
「何なんだよ。ワケ解んねぇ…」
ルークがこの感情の意味を知るのはまだ先の話だ。