彼は時々均衡を崩す。
その事に気付いたのはいつだったろうか。少なくとも、とジェイドは過去を思い返す。
少なくとも、雨の日であったことは間違いない。何故なら彼は雨の日以外に均衡を崩す事がない。
均衡、とは勿論精神の均衡の事だ。ジェイドの知る限り誠心の均衡を崩している人間というのはどこかしら箍が外れたようになるものだが、彼は違った。彼は精神の均衡を崩して尚、極めて理性的だった。
少なくとも、表面上は。
…今日も雨が降っている。
彼は今日も崩れるのだろうか。誰に悟られる事もなく、ただ独りで。
朝から振り続けている雨は夕刻を過ぎる頃になっても止む気配がなかった。
真夜中、彼が部屋を出て行ったことは知っていた。
彼が雨の日に度々均衡を崩すことを知っていたから、少しだけ、気になっていたのだ。
それでも流石に日を跨いで2時間も経ったこの時間にもなれば彼も出かけることはないだろうと思い、杞憂だったかと安堵しつつ、自分らしくも無い感情に苦笑の溜息を吐いた時、宿屋から出て行く彼の姿を認めた。
だが、彼は分別の付かぬ子供ではないのだし、普段自制ばかりしているのだからたまには少し好きなようにさせた方が良いのだと思い、放って置くつもりだったのだ。
けれど彼が宿屋を出てから2時間が経ち、3時間が経つと流石に気がかりになった。
日付を跨ぐ前であれば開いている酒場もあるだろうが、夜明けの方が近くなったこの時間には どの店も開いてなど居まい。 そもそも、彼が出て行った時間に開いている店など、この街には無い筈だった。
だというのに、3時間以上も彼は何処で時間を潰しているのだろうか。
暫く小降りになっていた雨が再び勢いを増した様子を見て、漸くジェイドはベッドサイドから腰を上げた。
ふらりと出て行ったのだろうから、恐らく傘など持っていないだろう。
ガイを追いかける都合の良い言い訳が出来たことに心の何処かで安堵しながら、ジェイドは宿屋を出た。
予想とは異なり、彼は案外簡単に見つかった。そもそも、身を潜める必要が無いのだから当然かもしれないが。
声を、掛けようとして一瞬躊躇う。彼があまりにも穏やかな表情をしていたから。
それでも、意を決して声をかけたのは、彼を此処に繋ぎ止めておきたいと思ったからだ。
「…ガイ」
普段なら聞き逃してもおかしくないだろう程までに落とされた声量だったが、ガイは反応した。
「ジェイド…?」
ゆっくりと目を開け、ジェイドを見遣る。
その瞳はこの場に不釣合いな程、酷く穏やかで、ジェイドの心を落ち着かなくさせた。
「帰りますよ」
そう言って、ガイのすぐ近くに寄り、傘を差してやる。ガイは既にずぶ濡れになっていて、到底意味のある行為とは思えなかったが他に良い行動を思いつかなかった。
本来なら腕の1つでも取って引き返すべきなのだろうが、出来なかった。それをしてはならないと思いさえした。
「ああ…、うん」
だがガイは動く素振りを見せない。
「ガイ?」
「雨が降ると、気が楽になるんだ」
何でなんだろうなぁ。そう呟くガイに言葉を返して良いものか、ジェイドは考える。
ガイは、それを期待しているのか。ただ聞いてもらいたいだけなのか。それでもただ呟いているだけなのか。
「雨が降ると…雨が降ってやっと息が出来たような、そんな感じがする」
そう言って、ガイは空を仰ぐ。曇天が広がるだけの空をどこか愛おしそうに見つめ。
「貴方が、」
言葉を紡いだのはジェイドだった。
「貴方が普段――雨の降らぬ日に息苦しさを感じるというのなら、私が雨になりましょう。貴方が雨に許されていると感じるなら、貴方が雨に濯がれたいと思うなら、私が雨の代わりに して差し上げますから」
だから此方に戻っていらっしゃい。
考えて、出た言葉ではない。ただガイが雨に連れて行かれてしまうような気がして、咄嗟に出た言葉。
らしくもない、だが紛れも無い本心だった。
「……ありがとう」
そう言うと、そっとガイはジェイドに凭れ掛かる。
ガイの身体の重みを感じてやっと、ジェイドはガイの身体に手を触れた。
触れられる。それだけのことが酷く愛おしかった。