境界線越しの優しさ

 どんなに耐え難い悪夢を見たとしても、彼は飛び起きるという事をしない。
 ああ云ったものは本来自制の利くものではなく反射の範囲であろうから、彼が飛び起きないのは元からの習性か、或いはそういった反射すらも自制出来る程繰り返しその行為に耐え続けてきた結果なのだろう。根拠はないが、後者なのではないかと私は考えている。
 彼が悪夢から覚醒する時は必ず、まず眼を見開きそのまま呼吸すら忘れて凍り付いたようにしている。そしてのろのろと震える手で口元を覆い、呼吸を整えながら視線で周囲を窺うのだ。
 同室の人間に気付かれていないかどうかの確認。そして――夢が夢であったことの確認をする為に。数度だが、小さな声で「ゆめ、か…」とやや呆然とした様子で呟く彼の声を聞いている。
 彼が魘され、夜中に目覚めることはそう珍しいことではなかった。彼だけでなく、ルークも度々夢に魘されている。女性陣もそういったことが間々あるし、私自身が魘されて夜中に覚醒するということもあった。
 誰しも多かれ少なかれ抱えている物がある。だから、彼が連日魘されていることを知った時も、特段何をするつもりでもなかった。こういったものは自分自身で克服するしかないのだ。
 その考えを改めようと思ったのは、彼が連日魘され目覚めるようになってから2週間、その後洗面所などに暫く篭るようになってから5日程が経った頃だった。
「――っ」
 いつものように、彼が夢から目覚める。同室の私とルークの様子を窺い、口元を強く抑えたままそろりと気配を消して洗面所に向かう。その様子を盗み見たが、月明かりに照らされた彼の顔は常より蒼白だったように思う。
 扉が閉まり、ややあってから僅かに水音が聞こえてきた。それを聞きながら身体を起こす。眼鏡を掛け、ベッドから腰を上げた。ルークとミュウが暢気な顔をして眠っているのを確認して、洗面所に向かう。あの様子なら多少音を立ててもルーク達が起き出す事はないだろう。
 ドアノブに手を掛けて、一気に扉を開いた。視界に彼の姿が入らないことを一瞬訝しく思うが、視線を下げてすぐに答えに行き着く。
 彼は――ガイは、洗面所の床に蹲り私のことを見上げていた。
「っ――、っ、水でも、汲みに来たのかい?」
 咄嗟のことに青白い顔と荒い息は流石に隠し切ることが出来ず、それでも無理矢理に笑みを作って立ち上がりながら、ガイはそう聞いてきた。
 ここで彼の望む通り肯定の返事をして何事もなかったかのようにするのが優しさなのだろう。だが、私はそうしようとは思えなかった。目を瞑るには彼の顔色はあまりにも悪過ぎる。これでよくも日中平気な顔をしていられたものだと思う。
 ガイの言葉を無視し、備え付けのコップを手に取って中に水を注ぐ。
「あ、邪魔だろ、悪いな今出て行く、から」
 フラフラとした頼りない足取りで洗面所からガイが出て行った。彼は、アレで大丈夫と言い張る気なのだろうか。
 溜息をひとつ吐いて、流れる水を止めた。洗面所を出て、靴も脱がずベッドに腰掛けてぼんやりとしているガイの前に立つ。
「飲みなさい」
「え?」
「飲みなさい」
 押し付けるようにして水の入ったコップをガイに渡した。状況が飲み込めない様子のガイを無視して、自分の荷物を漁る。目当ての物を発見すると中から出し、無造作にガイの横に放った。
「これ、は」
「睡眠薬です。無理をするなとは言いませんし言う気もありませんが、あまり無理する状態が続くなら少しは何かを頼ることも考えなさい」
 言いながら靴を脱ぎ、ガイに背を向けてベッドの上に身体を横たえる。此方が起きていればこう言っても尚彼は気を使うだろう。
「――夢を、見るんだ」
 目を瞑りこのまま寝てしまおうと思ったとき、ぽつりとガイが言葉を発した。
「最初は、あの時姉上達がオレを庇って死んだ時の夢だった」
 静かな声でガイが続ける。
「そこに、段々違う記憶が入ってきた。屋敷に居た頃の記憶や――カースロットに冒されていた時に、見せられた、夢とか」
 やはり、と思う。カースロットの影響は、ルークを殴ったり襲い掛かったりといった事だけではなかったのだ。導師が度々ガイの心配をしていたのはその事をよく知っていたからだろう。あの術は、記憶を掘り起こし理性を麻痺させる術だという。ガイは術に冒されてから相当な――普通なら耐えられる筈がない――期間を術者に抗い耐え続けていたのだ。
「イオンに解呪してもらってるのに、なのに毎日毎日、繰り返しこんな夢を見るなんて、そんな自分に」
 吐き気がする、と言ったガイの声は消え入りそうだった。
「…夢を見るメカニズムは解明されていませんが、」
 此方が言葉を発するとは思っていなかったのだろう、ガイが身じろぐ気配がするが、無視して続ける。
「記憶を整理する際に夢を見ると云う説が有力だそうです。ですから、貴方が繰り返し過去に見たものを夢に見る事で気を病む必要は無いんじゃないですか」
 カースロットに冒されていた頃の夢を見るのは、失っていた記憶が呼び水になった所もあるのだろう。いずれにしても、見る夢を選ぶ等と云う事は常人に出来ないのだから、その事で必要以上に自分を追い詰める必要は無いだろう。
「嗚呼、それとその薬は差し上げますから、必要だと思ったら寝る前に一錠飲むように」
 もう言うべき事も無いだろうと思い、瞼を閉じる。
「――ありがとう、旦那」
 フッと、ガイが笑った気配がした。顔は見えないので勘違いかもしれないが、その時の私は何故かガイが笑ったことに確信を持っていた。