はぐれた追慕

 暗闇で目を開ける。夜明けまではまだ大分時間があるだろう。
 同室で眠る人間を起こさぬよう、ガイは細く薄くゆっくりと溜め息を吐いた。
 動悸という程ではないが、鼓動がやけに気になる。
 落ち着かない。
 肉体的にも精神的にもそれなりに疲れているのは確かなのに、全く眠気が訪れる様子が無かった。
 ゆっくりと、身体を起こす。同室の二人の様子を伺うが、起き出す気配は感じられない。それにほんの少しだけ安堵し、ベッドから抜け出した。
 身なりを整えて剣を手にし部屋から出る。ひやりとした空気を頬に感じた。
 昼とは異なり、ひっそりと全てが沈んでしまったような雰囲気の庭に出て、瞼を閉じて息を吐き出す。
 鞘から刃を引き抜き眼前に据える。僅かに視線が揺らいだがそれはほんの一瞬で、その後は真っ直ぐに目の前を見据え無心で空気を斬った。
 ひたすらに空気を斬る。ひとつひとつ、教えを噛み締めるように。繰り返し、繰り返し。何度も。

 剣を振るっている間は、確かに父が居た。

「こんな時間に鍛錬ですか」
 聞こえた声に、びくりと身体が反応した。
 悟られぬように出てきたつもりだったのに、だとか、起こしてしまった、だとか、バレてしまった、だとか、本来なら浮かぶであろう考えはガイの中に一切浮かんで来なかった。ただ、頭の中が真っ白になる。
「腕を磨くのは良いですが、明日からまた野宿です。休める時に休んでおかないといけないということは貴方も解っているでしょう?」
 掛けられた声はどこまでも穏やかであるのに、まるでその言葉に縛り付けられたように腕が、身体が動かない。
「ガイ?」
 何か答えなければ、という考えすら浮かんでは来なかった。声を出す事すら、出来ない。
 剣を握りしめた右手を見つめたまま、ガイは立ち尽くしていた。
「…ガイ?」
 様子がおかしいことに気付いたジェイドがゆっくりとガイに近付く。それでもガイは微動だにしなかった。
 剣を固く握りしめた右手の上に、ジェイドは自身の右手を被せる。
「どうしたんですか。貴方らしくもない」
 その行為に溶かされたように、ガイはゆっくりと口を開いた。
「わすれて、しまう」
 一度息を吸い、僅かに唇を戦慄かせて、小さな、掠れた声で。
 何を、とジェイドが聞き返そうとした時、ガイが更に言葉を発した。
「ジェイド、オレ、忘れてしまう。もう顔も、声も、殆ど覚えていないのに。もう、これでしか、父上が居た事を、オレは証明出来ないのに。このままじゃ、父上を忘れてしまう。父上が消えてしまう」
 堰を切った水のように言葉が零れ出す。それは嗚咽のような苦しさで、悲鳴のような悲痛さでジェイドに届いたが、ガイは泣くことも縋ることもしなかった。
 透明な瞳を伏せその場に立ち尽くしたまま、どうして、と呟いてガイは剣を握る手に、より力を込める。
「でも、戦えば戦う程、技が自分の物になればなる程、父上を思い出せなくなりそうで」
 忘れたくなんかないのに、とガイは呟いた。
 ホドが消滅した今、ガイに残された数少ない家族との繋がりのひとつが剣の流派だ。ガルディオス家とそれに連なる者にしか伝えられないそれは、当然ジグムント・バザン・ガルディオス伯爵も使い手の一人であった。
 だが、それも最早薄らとしか記憶の中に残っていない。
 不安なのだ。何よりも大切だった家族の事を忘れてしまうことが。
「どうして」
 消え入りそうな声で、ガイが呟いた。
 5歳になったその日に家族と死に別れたのだ。本来なら既に忘れ去っていても不思議ではないだろう。
 そんな遠い記憶を今日まで覚えているのは、彼の執念なのだろうとジェイドは思う。
「宿に戻りましょう。今日は冷える」
 ガイの肩を抱き、室内へ促す。
「……ごめん」
 震える声で呟かれたガイの言葉が何に対しての謝罪なのか、量ることが出来ない。
 ただ、怯える子供のような様子を見ていることが出来ず、ガイの頭をそっと撫でる。
 ジェイドにはそんな事しか出来なかった。