かえるところ

 知れず、溜息が漏れた。
 一度は断絶したとされた伯爵家。16年も経った後に突如として現れた嫡男。戦争と崩落によって物質的証拠は何も残っておらず本人かどうかの証明など出来はしない。にも関わらず皇帝陛下の右腕である軍人が身元の保証をしており――それはつまり実質的に皇帝陛下の保証でもあった。しかし納めるべき領地は既に存在せず、だというのに爵位を返還され、国庫に凍結されていた財産は開放され、皇帝陛下に目をかけられ彼が溺愛する愛玩動物の世話まで任されている。
 マルクト国内に於ける自分の身の上を再確認して、乾いた笑いがこみ上げてくる。
 何と異常な存在であろうか。身の上に何一つ嘘が無いことなど自分自身が一番良く知っているが、事情を知らぬ――特に貴族院内部の――人間が納得し得る要素が何一つないのだ。ガイだって、こんな人間が突然現れたらまず偽者であることを考える。それが、当然なのだ。
 増して皇帝とその右腕の庇護を受けている――この際事実は関係ないのだ、ただ受けているように見えれば良い――のならば嫉みや俗な噂が飛び交おうがおかしくは無い。
 そんなこと、マルクトに移住すると決めた時から分かっていたことではないか。
(覚悟なんて、出来ていた筈なのに)
 戦前、ガルディオス家とそれなりに交流のあった貴族も中には居るらしく、それとなく自分を気にかけてくれている。彼等は自分の中に亡き父――或いは母の面影を見出し、昔の話をぽつりとしてくれたりもした。それらはガイにとって随分と救いになっている。
 だが、彼等は貴族院の中では少数派であり、だからこそ表立って何かをしてくれる訳ではなかった。元より、ガイもそれを期待しては居なかったが。貴族というものはドロドロとしたしがらみが多いのだ。突如現れた出自の怪しい新参者の自分と堂々と交流すればたちまち足を引っ張られることになるだろう。自分に厚意を持った為に相手がそんな事態に陥るのはガイにとっても不本意であり、今はそれで良いと思っている。これから変えて行けば良いのだと。
 思っている、筈なのに。
(どうしてそれがこんなにもしんどいんだろう)
 領地は無くとも、守るべき民は居る。それは嘗てのホドの民であり、生み出されたレプリカたちであった。今度こそ彼らを守る為に、彼らが暮らし易い世界を作る手伝いをするために自分はマルクトで伯爵となることを選んだのだ。その選択に後悔は無い。
 自ら望んで手に入れた地位であり、立場だった。勇みこそすれ、疎むような感情などマルクトに移り住むようになってから只の一度だって抱いたことは無い。

 だが、何故だかとても
 とても かえりたかった。

 何処に、という明確な場所を思い浮かべるでもなく。ただの衝動としてその思いがある。
 故郷であるホドはもう亡く、今までの人生で一番長い時を過ごしてきたバチカルにも戻れない。何より、戻る気は無かった。
 にも関わらず、漠然としかし切に「かえりたい」と、思う。
 もう帰る場所など無いにも関わらず。既にガイにとってはここマルクトが――グランコクマが帰る場所だというのに、その願いにも似た思いは消えなかった。

(自分ではもっと図太い奴だと、思っていたんだけどな)
 自嘲の笑みを浮かべながら、歩みを進める。気付けば足は、ジェイドの執務室に向かっていた。無意識、という奴らしい。今日は軍部当てに仰せ付かった書類等も無く、つまり会う口実が何も無いのだが、忙しい彼は自分に会ってくれるだろうか。
 少し不安に思うが、既にガイは執務室の前の扉に立っていた。
 見張りの兵がジェイドの在室を伝えてくれる。ここまで来て踵を返すのは不自然だろう。兵に礼を言いながら扉をノックし、了承を得てから入室する。
 部屋の主は、やはり多量の書類に囲まれて仕事をしていた。
「どうしました?」
 仕事を続けながらジェイドが問うて来る。それに曖昧な返事を返しながら、ジェイドの背中側に周った。嗚呼駄目だな、と思う。
「ガイ?」
 依然として書類から目を上げずにいるジェイドの背中に、ガイは抱き付いた。
「何をしているんですか」
「ジェイドに抱き付いてる」
 今日この部屋に足を踏み入れてから初めて明確な返答をする。
「そんなこと聞くまでも無く分かりますよ」
「ん…、確かめてる」
 ジェイドの求めている答えではないだろうな、と分かりながらガイは答えを濁した。そのままジェイドの首筋に顔を埋める。
 嗚呼駄目だな、と再度思いながらも抱きつく力を緩めることが出来ない。
 こういった行為をするのは初めてではなかった。
(情けない)
 ジェイドに分からぬように、ガイは自嘲の笑みを浮かべる。
 自分が望んだ状況に身を置きながら、訳も無くこうして居たたまれないような感覚に陥り、その度にこうしてジェイドに触れに来る。理由など、自分にすらよく分からなかった。ただ、かえりたいと思うと今日のように足がジェイドの執務室の方へ向かう。それだけが分かっていることだった。
 貴族院で良くない噂も流れているのだ。これ以上ジェイドに迷惑がかからない内に止めよう、とは思うのだが、どうしてか止めることが出来なかった。
(何が図太いつもり、だ。馬鹿だろ俺。本当に情けない)
 いつもジェイドはこうしてされるがままになっていた。それが厚意からなのか単に面倒事が嫌だからなのかは分からない。聞くべきだとは思うのだが、聞き出せなかった。ただ少なくとも、嫌われているということは無いだろう、と思う。ガイの知るジェイドは、嫌いな奴が自分に触れることを許す人間ではない。
 だからこそ、ジェイドが何も言わないのを良しとしていつまでもこんなことをしている訳にはいかない。
 そう思い、そろそろ離れなければと決心をするところでジェイドが声をかけてきた。今までには無かったことだ。
「ガーイ」
「…ん」
 やはり、迷惑だったのだろう。もうこんなことはやめなければ、と思いながらも抱き締めることを止められずに居ると、ジェイドが思わぬことを言い出した。
「抱き締めさせて頂けませんか」
「……」
「嫌なら、そうだと言って下さい。貴方が嫌がることを無理にしようとは思いませんから」
 そう言いながらジェイドは優しく頭を撫でて来る。
 抱き締められるのは、嫌ではない。頭を撫でられるのだってそうだ。だが、ジェイドの言葉に甘えてしまっても良いのだろうか。グランコクマに来てから、随分とジェイドを頼りにしてしまっている。今までのそれだけでもありがたいのに、これ以上ジェイドに何かして貰って、良いのだろうか。
「……」
 そのままの状態で、ガイは何も答えられずに居た。
 どうすれば良いのか、分からない。
「…抱き締めますよ?」
 構いませんね?と尋ねられるが、答えられない。自分がどうしたいのか分からなかった。
 依然としてジェイドに抱き付いたまま黙り込んでいると、溜息の音が聞こえた。呆れられてしまったのだろう。当然だよな、と思うが、何故かそれをとても悲しく思う。自業自得であるというのに。
(ホントに馬鹿だ、俺)
 そう自嘲すると、腕の中でジェイドが動き出した。
 いよいよ拒否されるのだろうか、と覚悟を決めると、予想外の感覚がガイを包んだ。
 ジェイドに抱き締められた、らしい。
 それを不思議に思う間も無く、ジェイドの声が降って来る。
「拒否なんてしませんから」
 だから、欲しい時は素直にそう言って下さい。そう告げて、ジェイドはガイの肩に顔を乗せた。
 ジェイドが言う通り、自分は欲しかったのだろうか。ジェイドが。この温もりが。
 甘えてしまって良いのだろうか。迷惑がかかるんじゃないだろうか。
 そんなガイの思いを見透かしたように、ジェイドが抱き締める力を僅かに強めてくる。それがとても、心地良かった。
「……ぁぁ」
 小さな声で遠慮がちに、そう返す。
 もう少しだけ、この言葉に甘えさせてもらおう。もう少し、自分が強くなれるまで。
 そう決意して、瞼を閉じる。
 今はただ、この温かさを噛み締めていたかった。