「よお」
「また抜け出して来たんですか」
山のような書類に目を通していると背後から声が掛かる。室内に侵入してくる気配は感じていたので別段驚く事もなかったが、それでもその人物の来訪を意外だとジェイドは思った。
「今日は抜け出してきた訳じゃないぞ。急ぎの仕事は終わらせた」
「急ぎではない仕事も終わらせてから来てください。大体、そうやって何かと後回しにするから急ぎでは無い仕事も急ぎの仕事になってしまうんです」
溜め息を吐きながら、それでも書類から目を上げることなく言う。そんな幼馴染の言葉を聞いて、もう居ない青年もよくそう言っていたことを思い出し胸に痛みが走った。その痛みを表情に出しはしなかったが。そうすることは皇帝としてのけじめであり、ピオニー自身の意地であり、大人としての分別だった。憚ることなく泣く事が出来る子供を羨ましいとは思うが、それだけだ。自分にはもう出来ない事だと、それはただ当然のことなのだとピオニーは思っている。
「まあ良いじゃねーかオレのことは」
「良くありません」
「今はオレのことよりお前だ」
普段と変わらず冷たいジェイドの物言いに、今度はピオニーが溜め息を吐く。そして、言った。
「――泣かないのか、お前」
ピオニーはガイの死で泣くことは出来なかった――或いはそれを望まなかった――が、ジェイドは別だろうと思う。彼等は一般的な言い方をするなら恋人同士だったのだから。男同士であった為に結婚などは出来なかったが、むしろ恋人というよりは夫婦のようなものだったとピオニーは思う。それ程までに2人は互いを思いやっていた。まして、ガイが死んでまだ十日しか経っていないのだ。
「…泣きませんよ」
小さな声で、ジェイドは確かにそう答えた。
「私は未だに、ガイが死んだというのに、死というモノが理解できない。それも理由なのかも知れませんが、あまり、悲しくないんですよ。不謹慎かもしれませんが」
「ジェイド――」
何かを言いかけたピオニーを制止するようにジェイドは言葉を紡ぐ。
「むしろ私は、嬉しいと感じているんです。或いは、安堵、という言葉に置き換えられるかも知れません」
そう告げるジェイドは柔らかく微笑んでいた。恋人が死んだ人間が浮かべるには異常とも思える表情を見て、それでもピオニーはそれを異常とは思えなかった。
「ガイにもう触れられないのは、そうですね淋しい…のかも知れません。ですがそれよりも、ガイを遺して逝くことが無くなったということが、またガイに悲痛な思いをさせることが無くなったということが、嬉しいんです」
ガイは、5歳にして一族野党を失った。愛し、愛されるべき人間を失った。そして数年前の戦いで、嘗ての従者であり親友であった人間を失い、――一時的にではあるが――我が子のように愛を注いだ主人であり親友をも失った。
彼は余りにも多くの存在を失った。そんな彼を自分もまた置いて逝ってしまうのだろうと、思っていたのだ。また彼に喪失の痛みを与えてしまうのは心が痛んだが、十四歳という歳の差は如何とも埋め難いものであり、こればかりはジェイドにもガイにも、どうする事も出来ないものであった。
「だから、泣けない――泣く必要が無いんです」
きっと普通の人間からすれば、私は異常なんでしょうね。と穏やかに言うジェイドに、ピオニーはかける言葉を持っていなかった。
確かに異常かも知れない。可笑しいかも知れない。狂ってすらいるのかも知れない。けれど、他人には到底理解の出来ないものかも知れないが、確かにそれは彼の――彼等の幸せの形であるのだ。それを、どうして間違っていると言えるだろうか。それを言う権利など誰も持っては居まい。ピオニーはそう感じる。
生きている事が重責だった訳ではない。愛する事が重荷だったわけではない。そういう形になってしまっただけで、彼等がそれを望んでいた訳でもない。彼等は純粋に互いを想い合っていたのだ。その点で彼等が他の何かと違えていた訳ではない。偶々、ガイが死ぬという形で、全ての感情が綺麗に収まってしまった。ただ、それだけ。
「――…そうか、悪かったな」
「いえ、お気持ちだけは受け取っておきますよ」
そういう形の幸せだって、世界には在るのだ。それで良いんじゃないかとピオニーは思う。
他人が何と言おうと、他人がどう思おうと、彼等はそれで幸せなのだから。
彼等が幸せであることが、何よりも大切なのだから。