月夜

 ガイラルディア、それは死んだ名前だ。
 死人が生き返らないのと同じく、死んだ名前も生き返ることが無いのだと思う。だってそうだろう?死んだ名前が生き返るなら、死んだ人間だって生き返らなければ、道理が通らないではないか。
 死人が生き返らないことは痛い程良く解っている。だから、死んだ名前も生き返ることなんて無い。
 だとすれば、今自分が名乗っているガイラルディア・ガラン・ガルディオスという名前は何なのだろうか。少なくともこれは一度死んだ名前だ。自分の存在と共に自らの手で殺した、名前。それを今、今更名乗っている。既に死んだ名前だというのに。
 かと言って、ごく最近まで名乗っていた名前を名乗ることはもう出来ない。復讐の為に生まれ、使用人として過ごし、ルークと賭けをしたガイ・セシルは存在意義を失ったのだから。そう、ガイ・セシルという名前もまた、自分がマルクトで生きる選択をした際に死んだ――やはり自らの手で殺したのだ。

「オレは『誰』なんだろうな」
 酒の席でぽつりと零した言葉。それはマルクトに来てから常々考えていたが、口に出すつもりは無いことだった。酔った弾みでつい滑ったかと思うが、ここまで出してしまえば口を閉ざすのも今更だろう。結局、滔々と言葉を紡ぐ。
「自分で選んだ道だ、後悔なんてしてないさ。けど、名前を呼ばれる度に妙な気持ちになる」
 ガイも、ガイラルディアも、既に死んだのだ。生きる上での選択で、自ら殺した。死んだ名前を名乗り呼ばれるなんてまるで死人のようじゃないか、と自嘲する。
「貴方は死人などではありませんよ」
「ああ、分かってる」
 けれど『オレの名前』が死んでいることに変わりは無い。そう言って、グラスを呷る。カランと氷が濡れた音を立てた。
「死んだものは生き返らない。…アンタだって、解ってるだろう?」
「そう、ですね」
 一拍を置いて、ジェイドが酒に口を付けた。黄金色の液体が揺れる。
「ですが、貴方は生きている。それで良いんじゃないですか?」
 音素灯の光を反射して輝く緋色の瞳が、名前など些細なことだと言外に告げる。
「そういうものかな」
「そういうものでしょう」
 ゆっくりと勿体ぶるようにグラスを空にしてからジェイドは、それに、と続けた。
「貴方の云う死んだ名前である『ガイラルディア・ガラン・ガルディオス』と、貴方が今名乗っている『ガイラルディア・ガラン・ガルディオス』は違う名前だと思いますが」
「違う名前?」
「ええ」
 それきりジェイドは口を開かなかった。
 幸せな子供であったガイラルディア。生き残りとして故国に帰って来たガイラルディア。領主の嫡男であり全てに恵まれ周りに愛されていた子供と、たった一人の生き残りとして奔走する日々を送る青年。同一人物でありながらその存在は決して同じでは無いのだと、そう云うのだろうか。
 確かにそうかも知れない。或いは全く違うかも知れない。けれど、今自分は生きている。つまりはそういうことなのだろう。
「結局、進むしか道は無い、か」
「悩み囚われたところで解決などしませんからね」
「違いない」
 そうガイが苦笑した所で二人は席を立つ。ウェイターに代金を支払い、店を出た。月明りの下に吹く夜風が火照った身体から熱を奪って行く感覚が心地良い。
「悪かったな、妙な話をしちまって」
 あまり美味い酒じゃなくなったろう、と謝罪するガイにジェイドが微笑う。
「構いませんよ」
 この程度でガイの、この国での居心地が良くなるのなら話などいくらでも聞いてやろうと思っているのだから、とそこは伏せて。
 そんなジェイドに気付いてか否か、ぽつりとガイが言う。
「アンタに逢えて良かったよ」
「何か言いましたか?」
「いーや、独り言だ」
 そうだ屋敷で呑み直さないか、と話をはぐらかすように話題を変える。どうせガイがどう思っているかなんてジェイドには筒抜けなのだろうけれど。それでも素直にそれを伝えないのは少しばかりの意地からだ。
「折角ですし、そうさせて頂きますか」
 この間良いワインを手に入れたんだ、等と雑談を交わしながら夜道を歩く。そう遅くも無いが元々あまり人通りの多い場所ではない為か、そこは水の流れる音と僅かな靴音が聞こえるのみでとても静かだ。
 流れるような金髪の下の笑顔を横目で見ながらジェイドは思う。幼いガイラルディア・ガラン・ガルディオスとガイ・セシルに感謝を、そして『彼』に惜しみの無い幸福を、と。

 頭上に臥待の月が美しく輝く夜だった。