氷の流れ弾

 大佐とガイの様子がおかしい事に気付いたのは偶然だった。
 それは宿屋でそれぞれの部屋へ分かれる前に渡し忘れた買い物リストを、買い出し当番だったガイに届けに行った時の事だ。
 大佐とガイ、そしてルーク様が泊まる部屋の前で私はノックをするでもなく部屋の中の様子を伺っていた。安宿だけあってと言うべきか、室内の声が廊下に居ても漏れ聞こえてくる。どうやらルーク様は部屋に居ないらしく、大佐とガイが話し合う声が聞こえた。でも、その様子が何だか普段と違ったのだ。
 はっきり声を聞き取ろうと出来るだけドアに近付く。もちろん、不審に思われないように周りを気にしつつ。
「――、頭大丈夫か?」
「貴方よりはまともなつもりですからご安心を」
 聞こえて来た二人の声に、背筋を粟立たせる。
 恐い。なんだこれ。誰。
 真っ先に頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
 息と気配を出来る限り殺してすぐにドアから離れる。部屋に居るのは本当に大佐とガイなのだろうかと思って部屋番号を確認したけれど、書かれていたのは間違いなく今日大佐達が泊まる部屋の番号だった。
 何より、聞こえた声は間違いなく大佐とガイの声だ。その事実を疑いたくなるくらい、いつもと二人の雰囲気が違った。感じたのは、例えるなら目の前にあるドアを開けたらそこから先は極寒の地なんじゃないかと思ってしまうような、そんな雰囲気。
 私の知る大佐とガイはいつも微笑んでいて、大佐は嫌味は言うけれどそれすら笑いながら告げるようなちょっとお茶目なヒトで、ガイはちょっとからかいたくなる所もあるけれど常識人でいつも誰かのフォローに回る優しいヒトで。
 そんな私が知る二人はあのドアの先には居なかった。断言出来る。私が知る二人はあのドアの先に居なかった。
 さっき聞いた二人のトーンの低い声を思い出して、ぶるりと震える。
 あれは 誰だ。
 怖気付いた私はガイにメモを渡す事を諦めて、自分で買い物に行こうと決意する。面倒だし不満ではあるけれど、あのドアを開けるよりずっとマシだ。
 そう思って後ずさった瞬間、声を掛けられる。
「アニスじゃねーか、何してんだ?」
(タイミングが悪い!!)
 心の中で毒づきながら振り向くと、そこにはルーク様が立っていた。
「あ、ルーク様ぁ! べ、別に何でもないですよー」
「それ買い物のメモか? ああ、ガイが当番だとか言ってたな。部屋入って渡せばいーじゃん」
「ちょっ!!」
 私の手にあるメモを目敏く見つけたルーク様は軽い調子でドアを開く。漏れ聞こえた言葉だけでその先の空気が酷く冷たいことを簡単に想像出来てしまうような、そんな恐ろしい世界へ繋がるドアを。
 驚きの余りついルーク様を非難するような声が出てしまったけど、「ちょっと何すんの」という言葉を寸での所で飲み込んだだけ褒めて欲しい。普段はそうでもないのこういう時に限って察しが良いとか、本当にタイミングが悪い奴!マジありえない!と心の中で喚くけれど、そんな事をした所でどうしようもなかった。 一体この先にはどんな惨状が広がっているのだろう…。
「おいガイ!アニスが買い物のメモ届けに来てんぞ」
「そういえば受け取ってなかったな。ありがとうアニス」
「おや、アニスが届けに来たんですか?お駄賃でも要求されそうですねぇ」
 覚悟と諦めの入り混じった気持ちで見たドアの先の世界は、呆れるくらいいつも通りの空間だった。
 普段なら大佐のちょっと意地悪な発言に軽い調子で言葉を返しているけど、衝撃のあまり私は何の反応も返せなかった。
 部屋にあるのは本当に何の変哲もない穏やかな空気。中に居るのもルーク様と、ちょっと嫌味だけどにこやかでお茶目な大佐と困ったような顔で笑いながら気を利かせてくれるガイ。紛れもなく私が知っている人達で、私が知っている空気だった。
「アニス?」
 どうかしたのかい?というガイの言葉に慌てて返事をする。
「な、なんでもない!はいコレ買出しのメモ!」
 大佐もガイも本当にいつも通りで、部屋の外で聞いたのは夢かと思ってしまいそうだけど、今思い出しただけでも悪寒がするような雰囲気は絶対に夢なんかじゃないと断言できる。
「じゃあ、私はこれで!」
 とにかくこの部屋から出た方が良いと思って、そそくさと部屋から出て行く。途中で「変な奴」とルーク様が言っているのが聞こえて玉の輿プラン的には不味い事をしてしまったと思ったけれど、正直今はそれどころじゃなかった。
「何なの、アレ…」
 足早に自分達の部屋まで戻って来た所で、私はやっとそう呟いた。
 普段はそれなりに仲が良さそうな大佐とガイだったけれど、実は物凄く仲が悪いんだろうか。というか、部屋での会話を聞いてしまった以上そうとしか思えなかった。
 仲が悪いことを隠す、という事自体は理解できる。やっぱり二人は大人だし、そういうことを私達の前で隠すべきだという良識があるのだろうな、とも思う。
 けれど、本当は聞いているだけであのゾッとする様な冷たさを出すような仲なのに、私やルーク様達の前では完璧にそれを隠し通しているという事の方に私は得体の知れない恐ろしさを感じた。だってあの空気は、会話の温度は、ちょっと堪えるなんて生易しいもので抑えられるものじゃない。聞いているだけで当事者ではない人間にも無条件に恐怖を与えるような、そんなものだったのだ。
「…とりあえず、なかったことにしよう」
 きっとそれが一番だ。こんなこと誰に言っても信じてもらえる筈がない。私だってきっと誰かから聞いても信じられはしないだろうし。
 悪い夢だったと思って忘れよう。ただしあの人達が二人きりで居るような時には不用意に近付かないようにすることは忘れないようにしよう、と心に決めて自分が割り当てられた部屋へのドアを開けた。